こういうわけで、
私達は恐れる心を持とうではありませんか。
神の安息に入る為の約束が、まだ残っています。
あなた方のうち誰かが、
そこには入れなかった
と、いう事のないようにしましょう。
というのも、私達にも
良い知らせが伝えられています。
あの人達と同じなのです。
けれども、彼らには、
聞いた御言葉が益となりませんでした。
御言葉が聞いた人達に、
信仰によって結び付けられなかったからです。
信じた私達は安息に入るのですが、
私は怒りをもって誓った。
彼らは決して、私の安息に入れない。
と、神が言われた通りなのです。
もっとも世界のもとが据えられた時から、
御業はすでに成し遂げられています。
何故なら、神は第七日について、あるところで
神は、第七日に全ての技を終えて休まれた。
と、言われ、そのうえで、この箇所で、
彼らは決して、私の安息に入れない。
と、言われたからです。
ですから、
その安息に入る人々がまだ残っています。
そして、以前によい知らせを聞いた人々は、
不従順の故に入れませんでした。
なので、神は再びある日を
今日
と、定めました。
長い年月の後、同じ様に言われました。
ダビデを通して、
今日、もし御声を聞くなら、
あなた方の心を頑なにしてはならない。
と、語られたのです。
もし、ヨシュアが、
彼らに安息を与えたのであれば、
神はその後に別の事で話される事は、
なかったでしょう。
したがって、安息日の休みは、
神の民の為にまだ残されています。
神の安息に入る人は、
神がご自分の技を休まれたように、
自分の技を休むのです。
ですから、
誰もあの不従順の悪い例に倣って
落伍しないように、
この安息に入るように
努めようではありませんか。
神の言葉は生きていて、力があります。
神の日には、全てが神で裸であり、
さらけ出されています。
この神に対して、
私達は申し開きをするのです。
さて、私達には、
諸々の天を通られた神の子イエス
と、いう偉大な大祭司がおられます。
信仰の告白を固く保とうではありませんか。
私達の大祭司は、
私達の弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯しませんでした.
が、全ての点において、
私達と同じ様に試みにあわれたのです。
ですから私達は、
憐れみを受け、
また恵みをいただいて、
折にかなった助けを受ける為に、
大胆に恵みの御座に近づこうでは
ありませんか。