スペインの海岸が左に見え始めると、
間もなく、船は、シブラルダー海峡を過ぎるのであった。
左手には大きな砲台がいかめしく見える。
右手には、遠く阿弗利加の山々が、
墨絵の様にぼんやりと浮かんでいる。
気候は急に暑くなった。
ロンドンを出てから七日目ぐらい朝早くに、
船はマルセーユ港に着いた。
まだ、寝ているうちにボーイが郵便を持ってきた。
それは、独逸からの第一信であった。
船は一日そこへ泊り、
その夕方、沢山の新しい乗客を乗せて、港を出た。
船上の社交界は、この時からとても賑やかになった。
それは、有名なW博士がフランスに御遊学の帰途、
この船に乗られたからであった。
博士を取り囲んだ私共一団は、
先生の愉快なお話しぶりと、
豊富な諧謔とに、何もかも忘れてしまうのであった。
今までは長かった一日が、短かく思えるようになった。
西洋人らも
プロセッサーW、プロセッサーW・・・
と、呼んで先生とお話する事を楽しみにするようであった。
博士は謡曲がお好きである。
しかし、そのお相手のできるのは、我々の仲間にはない。
ただ一人、船のお医者さんのXさんできた。
時々、甲板上のスモーキング・ルームなどで、
お二人が謡いだされると、私共は、謹聴するが、
西洋人は一人出て、二人出てみんな逃げ出してしまう。
そして、
いつあの歌は、おしまいになりますか。
等と、こっそり私達に聞く。
どうも西洋人には、謡のその妙味が解らぬらしい。