船は、翌朝早くボート・セイドを離れ、
直ちに、スエズ運河に入った。
運河は、八千トン位の船が二艘やっと通れるほどの所である。
両側は茫々として限りない砂漠である。
2~3人の土人の子供が、
私共の船を追いながら海岸の砂原を走っている。
一銭か二銭投げてやると、
喜んで砂の中をかき混ぜ、それを拾おうとする。
夜に入った。
月は煌々として砂漠の一面を照らしている。
岸の一方にある小さな一軒家から淡い光が漏れている。
船は、ここにしばらく止まった。
それは、反対の方から来る英国の商船を、
先に通すためであった。
二つの船が運河で行き交う時は、一つの規則がある。
それは、潮に従って走る船が止まり、
それに逆らって動く船をまず通すのである。
英国船は次第に私共に近寄った。
窓々から出る電燈の光は、
船全体をいかにも華やかに見せるのである。
あちらの船でもこちらの船でも、乗客は皆甲板に集まった。
そして、一度に鬨の声をあげた。
それは、静かな夕べだった。
甲板に、一人耳を澄ますと遠くに歌が聞こえる。
マイナーの調べのどっさり入った悲しい節である。
私はその方に目を向けた。
定かにはわからぬけれど、
二人の土人が互いに手を取って、
月を仰いで歌うのであった。
私は、懐かしい故郷にでも帰ったような気がした。
そして、始めて自然というものに融和したような感じがした。
船の歩みが刻一刻、私とこの景色とを離すのを恨みとした。
翌朝は、波が少し荒くなった。
それは、航海に出たからである。
暑さは非常に烈しくなって、
夜は旋風機がなくては寝られぬようになった。
インド洋に出た時は、波が一層荒くなった。
それに暑さが加わったので、とても耐えられなくなった。
私は、遂に、シーシックになった。
それで甲板の椅子に静かに横になっていると、
私と同じ病気の人が次第に増えて来た。
そして、遂には、船中の人が大抵同じ状態に陥ったので、
食堂に出る人が2~3人しかなくなった。
ところが、例のW博士の一行は平気で、
ボート・セイドで求められ様な赤い土耳古帽をかぶり、
浴衣姿で出て来られた。
随分珍しいおいで立ちなので、
いつもならお腹を抱えて笑うのであるが、
今日はそんな元気さえない。
この状態は、ほとんど三日間続いた。
三日目の午後、お茶の時に日本のおいしいお菓子がついた。
ボーイが看板に持ってきてくれたので、
一ついただいてみると、大変おいしい。
三つまでいただき、
W博士の分まで残りなく食べてしまった。
立ってみると、不思議と前の悪い気分がすっかりなくなった。
好きなお菓子で病気全快とはお話のような話だと思った。