日曜の事なので、

私共はアレキサンダー卿とに導かれて教会に出かけた。

道々卿は、

先祖達が、どうして蘇格蘭国教に反対したか、

そして、今日のように改革派の教会ができたか。

を、物語られた。

駿河臺のニコライに響くような鐘の音・

ゴーンゴーン

と、至る所に鳴り渡って、私は、

世の終わりでも来たか。

の如くに感じせしめた。

礼拝の始まる時間は、略(ほぼ)同じであると見えて、

教会が沢山ある所に来ると、人が蟻の如くに、。

彼方からも此方からも集まってくる。

亜米利加当たりのように、自動車や電車で、

教会に行く人はほとんど見当たらない。

教会には、歩いていくものと皆決めてゐるらしい。

見たところ一家の主人と思しき者は、

皆、シルクハットにフロックコートである。

婦人などもちゃんとドレスしてゐるが、

綺羅を飾っている者は全く見受けられない。

一対、蘇格蘭という所は、

世界で最も宗教的で、また最も金儲けの上手な国で、

カーネギのようなお金持ちを出しているかと思ふと、

それと同時に多くの牧師・宣教師を世界に派遣してゐる。

日曜は、聖日だというので、

一切の仕事を擲って(なげうって)、

宗教の為に尽くし信仰を養ふ。

それで、汽車は、電車も平日のように頻繁に走らない。

私は、此の中古的な日曜の空気を、

味わひながら教会に入った。

教会は空席がないほどに、

参拝者を以って埋められている。

牧師の名は忘れたが、

英吉利や亜米利加当たりに、

度々呼ばれた事のある有名な人である。

との事である。

何でも非常にむづかしい神学上の題目をば、

約一時間に亘って説いた。

米国当たりで、

あんな難しい理論的な説法を立て続けに5つ6つもせらるれば、

不人望になるか免職させらるるのである。

しかし、ここでは、熱心に傾聴している。

説教の後で、アレキサンダー卿は牧師の名を指して、

某さんは、非常に精神的な人である。

と言った。

寡黙沈黙な蘇格蘭人の事であるから、

説教の後、会衆は牧師に挨拶もしないで、そろそろ出てゆく。

牧師もまた、しいて参拝の人々に会釈しようともしなかった。

ここらが英国の教会と大変違っている所である。

教会にゐる時に私共は、

男性とも女性ともつかぬ大勢の子供を見た。

頭髪は男の子のようにドレスしてゐるけれども

着物は女性のようである。

外国の女性が着るような短い緋の袴を穿いて、

脛を思い切って出している者もある。。

原口が

あれは女性だらうか。

と、教会を出てから言ふ。

私は、

あんな女性があるもんですか。

と、言った。原口は

男性でも女性でもなければ中性だ。

と、言った。

この問題は、

後でバーバー博士の宅に呼ばれて時に氷解せられた。