ゆえに一家の主婦たるものは、子供の教育はもちろん、
家内の経済雇人の指図などを、
一手に引き受ける責任をもっている。
しかるに米国の家婦は、
家内の経済等に置いて一般に無能である。
浪費しすぎる。
と、いう評判がある。
しかし、
家庭をにぎやかにし、快楽を増進せんとする事については、
米国夫人は随分努めるようである。
例えば、夕、主人が仕事場から帰り、
晩餐の席に着く前などには、
主婦は少なからざる時間を費やして体を磨き、
着物を着飾るのを常とする、
また、自分の容色が衰えない様に、
夫の目を喜ばす事が出来るように注意する。
また、家庭の装飾などに意を用い、
楽器などを備え付けて、高尚な娯楽を備えんと努める。
時に或いは、
朋友・親戚などをディナーに招いて景気をつける。
と、いうようなことをする。
妻が夫より受ける待遇は、一般に見かけより良くないが、
他の国の家庭に比して、一般によいと言えるであろう。
終わりに、「米国婦人の社会的地位について」
一言延べたいと思います。
米国民は、誰も知っているように、
目下富源の開拓に従事し、富の増殖に汲々としている。
しかし、その事に当たっている者は、米国の男子である。
彼等は、剣山・田畑・市場・政治界・法律界に、
その時間と労力とを費やしている。
それで、他の方面を顧みる暇がない。
精神的事業、
例えば宗教・教育・慈善・病人看護等に関する事業は、
ほとんど夫人の手に一任している。
と、言っても過言ではない。
この頃は、新聞事業著述等に従事する婦人も少なくない。
米国では、今、述べたように、
物質的富の蓄積に追われているから高等教育を受けた人でも
大学卒業後は学問が退歩するばかりであるに反して、
女子は、カレッジを出ても学問する暇など十分にあるから、
自分に研究を進めることが出来る。
したがって、
米国の文化は、女子によって代表せられん。
とする傾向がみえる。
と、ミュンステルベルヒ教授が述べた事も
無理はないと、思われる。
とかく米国の婦人は、
従来精神科医に於いて活動してきたが、
これからは物質界にも進出するようになるだろう。
と、思われる。
その原因は言うまでもなく社会状態の変遷である。
今を去る事40~50年位前、
産業が、いまだ今日の如く盛んならざる時においては、
壮年の男子は、結婚せずにはいられなかった。
その常時に於いて、
男子が外に出て衣食住の材料を得てくると女子は、
家にいて、それを生成して、
或いは食物となし、着物に変じたのであった。
粗製品を変じて、生成品とする時に当たって、
一度必ず夫人の手を煩わした。
すなわち、家において妻の必要を感じた。
然るに近年に至り、
工業が発達し、
衣食住一切の物を工場で造り出すようになってから、
女性の必要(経済的に見て)がなくなってしまった。
今では、ちょっと大きな町にいて、
金さえあれば、衣食住一切の事に不自由を感じない。
自分で欲しい物は何でもある。
それどころか、生活費が次第に高くなってくる事と、
これに安逸を愛する事の精神とが伴って、
結婚する事を好まない。
しかし、
最も便利の悪い田舎に住んでいる男子は、
米国でも割合に多く結婚する。
とにかく一般に結婚の割合が少なくなった。
すなわち、言葉を変えて言えば、
米国には未婚女子の数が増してきた。
これら未婚の女子は、
どうにかして自活の道を講じなければならぬ。
これ今日米国に於いて、
女子が産業実務、その他の方面に於いて、
男子の領分に、肉薄し競争せんと、もがく所以である。
その第一着手として婦人は、
男子と同様にいかなる方面にも活動する事が出来るように、
権利を置かねばならぬ。
女子参政権運動が、米国に盛んなるは、
かくのごとき事情にもとづくものであるが、
前に述べたるがごとく、
米国婦人は、非常に常識が発達しているから、
バンカースト婦人などが、
なしているが如き暴挙はあえてしない。
まとめ
米国婦人の特性
自重心・独立心に富んでいる事
一般に常識が発達している
挙動の自由(堅苦しくない)
積極的な精神
米国婦人の家庭及び社会における位置について
運ではなく、自分の力で作っていく
男性は、仕事で忙しいが、
女性は、学問をする時間が十分ある。
米国婦人の未来
女性の主な仕事である家事労働を、産業が行う。
だから、
今まで家事労働を行っていた時間を
別の事に使うことが出来る。
つまり、女性の社会進出が始まる。