その1

四年の間、住み慣れた紐育を後にして、

英国に渡ったのは、6月の13日であった。

始めにスコットランドに渡るつもりであった。

しかし、出発が夏なので出発する船すべても満員だった。

だから、やむを得ず英蘭(イングランド)行きの船に、

乗らねばならなかった。

しかし、キュナード汽船会社の船は何れも満員で、

いくら交渉しても明けてくれそうもない。

仕方がないから、ホワイト汽船会社のセドリック号という

稍々(やや)足の遅い船で欧羅巴に渡る事にした。

セドリック号は、2万何千トンの大きな船で、

前に沈没して世界の人を痛ましめたタイタニック号と、

同じ会社のものである。

埠頭を離れたのは丁度正午で、

セドリック号は山の様な姿をして、

悠々とハドソン川を下り始めた。

欧羅巴見物に出かける客は多かったので、

泣いて別れるという様な人は一人もなく、

出立ちからして縁起が良かった。

有名な自由の像(スタデューオリバーディー)を右に見て、

ステテン・イングランドの砲台の前を通り過ぎると、

船はすでに大西洋に出ていたのである。

無類の好天気なので、1~2等は勿論三等船客迄が、

甲板の上に這い出て、涼みを取っている。

船には、彼此千人位の乗客もあったろうか。

私達の二等は200人内外の人が乗っている。

その中には商人もあれば書生もいる。

学者もいれば酒屋の主人もいる。

中にも一番目立ったのは、5~6人の新婚夫婦らしき者と、

看板の上を飛び回っている金髪の子供と出会った。

大西洋では汽船会社間の競争が烈しいので、

船の構造・速力を改造し、待遇を改め、

先客になるべく多くの愉快と自由とを与えて居る。

朝の食事がすむと、無線電信係は、新聞を発行する。

新聞を読んで、甲板に出てゲーム等して遊んでると、

給仕人がお茶を出す。

船が遠方に見える三等船室にいる愛蘭の女中達が、

舞踏を始める。

彼是するうちにお昼になる。

午後は、汽船の乗組員と乗客との間に、

枕戦争・鶏戦争・競走などの催しがある。

ビロー・ファイトでH氏は成功しなかったが、

競争ではいつでもすべての人に勝った。

二等客に、我々の他にSさんという一人の日本人がいた。

丈が低いので、競走は得意でなかったけれども、

器用だったので、その他の遊びでは大抵の西洋人を負かした。

それで、船客は、

日本人には叶わない。

と、言っていた。

夕飯後は、

船の音楽隊が演奏を始める、舞踊がある。

と、いった様な塩梅で、何かかんか始終面白い事があるので、

一日中夢中で暮らす事が多い。

船客の多くは英米人であるし、船が英国のものだから、

総て言葉は、英語であった。

私共は、少しも不自由を感じなかったが、

英語のできない外国人達は、非常に困っている様子であった。

我々の食卓のすぐ前に座を占めた伊太利人の若夫婦などは、

可哀そうに一言も英語がわからないので、

食物をあつらえる事すらできない。

だから、手真似をしたり、妙な顔つきをして、

他人の所へ持って来る皿を見ては、

それを指さして誂える(あつらえる)。

という風で、見るも気の毒であった。

その為か2~3日経つと、とうとう食堂に出て来なくなった。

同行のH氏は人まねが上手なので、

船に乗り込んでから一日二日経つと、

イギリス人のアクセントを学んだ。

私も、

イギリス人口調を学ぼう。

と思ったが、

遣り損なってH氏に批評されはしないか。

と心配したので、その企てを止めてしまった。

そして、船の上では勿論、

英国に渡ってからもアメリカ口調で通してしまった。