したがって、人の事に余計なお世話を焼き、

陰口を言うような事は割合に少なくなる。

また、人を判断する時も、他人の陰口・悪口・風評等に、

迷わされる事が少ないから、長続きのする友達が多々いる。

次に挙げたいと思う米国婦人の特徴は、

一般に常識が発達している。

と、いう事である。

ここで、

常識の発達している。

と、いう意味は、

彼らが、実際社会に応用する知識を、

たくさん持っている事

を、いうのである。

前に話したように、

米国婦人は、独立して世渡りをする。

独立をして世渡りするに、

最も必要な武器は、「理知の力」である。

「理知の発達」と云うよりは、

独立独行を促す。個人主義でやり通す。

と、いう米国の習慣から必然に生まれ出でた現象と、

言わねばならぬ。

向こうでは、

18歳になるとソサイテーに紹介される。

それから先には、多くの社会に出入し、

多数の人と交際し、己を社会に紹介してゆく。

その間に、

一生の大事たる配偶者の選択を、せねばならぬ。

これには、「駆け引きと呼吸」が、必要である。

そんな所から、実際的知識なるものが自然にできてくる。

「一太古の常識」というのも、

アングロサキサン人種において、

殊に発達しているものである。

例えば、今の米国の大統領のウキルソン氏は、

一大学の教授であった。

しかし、前大統領タフト氏は、エール大学の教授になり、

ルーズベルト氏は、雑誌記者となり、

前外務卿ノックス氏は、一法律家であった。

と、いう塩梅にまことに融通が利く。

何をしてもできる。

多少ますます弁ずるというようなありさまである。

これは、米国民に常識がたっぷりあるところによるもので、

今日、専門家、専門家といって専門家でなけなければ、

何も仕事はできないと、たかをくくっている世の中において、

まことに面白い現象である。

女子が、参政権運動をするにあたっても、

米国婦人は誠に大人しく行っている。

決して乱暴な手段に訴えない。

こんな常識は、主に、家庭社会で得られるものであるが、

学校教育などに於いても、

米国は文明諸国に一等地は抜いている。

今日、米国の如くに女子教育の進歩している国は、

世界にはない。

米国の婦人は、教育がありすぎて生意気である。

と、いう評判は、ヨーロッパでも日本でもされる所であるが、

評判する欧州諸国が、米国の後を追うて、

婦人教育を行っているところを見ると、

米国の女子教育が、必ずしも悪いものでないと、

いうことが分かってくる。

次に、挙げたちと思う特性は、

米国婦人の挙動の自由であり、片苦しくない。

と、いう事である。

これも、前と同じお国柄から自然に生まれ出てきている。

今日、「自由の国」と言えば、何人も米国をさす。

しかし、「自由である」という事と、

不法放縦であるという事と、混同してはならぬ。

自由は、ちょうど剃刀の如きものであって、

随分役にも立つが、また、甚だ危険なものである。

米国婦人の中には、自由を乱用して、

横柄なような

わがまま勝手なような素振りをする者がある。

外国から来た婦人などで、

随分、この悪い意味の自由をまねる者が少なくない。

しかし、本当の米国婦人は、

自由を、

女性らしくなろう。慎み深くなろう。

と、いう方面に用いるように努める。

それで、米国のような所にも

男らしい女ばかりは、いない。