アメリカの大学、中学では卒業式の事を始業式という。

中学・大学を出ると、始めて高等の学問をなし、

業務に就く事が出来るからである。

私は、1912年6月5日、二つの始業式に臨む事が出来た。

6月5日は、学校の卒業式である。

私のいたホイッイアー・ホールでは、寮生が

真っ黒の正帽(キャップ)と式服(ガウン)を着ている。

そして、朝早くから上を下へと騒動している。

寮生の中で、ドクトルの学位を頂戴するのは、

私一人切りである。

この事早くもみんなの間に知れ渡り、

廊下・食堂・エレベーター等であう人毎に、

機嫌よく私を祝ってくれる。

階下の応接間へ出ると、卒業式に招待していた領事のHさん、

友達のHさんが待ってゐて下さった。

各科の卒業生はひと先ず、学校の図書館に集まれ。

という事で、お二人には、ただご挨拶のみすました。

皆が

おめでとう。

キャップとガウンがよく似合いますね。

というお祝い言葉を聞き流しながら道を急いだ。

学校の図書館に行ってみると、

どの部屋も溢れんばかりに卒業生が集まっていた。

そして楽しそうに話し合っている。

やがて行列が始まる。

好天気だから物見の人々は山の如くに集まっている。

そして、大きな人の中に小柄な、しかも外国人の私がいる。

だから、みんなが私を見ては囁いている。

式場たる室内体操場に入ると、

まばゆいばかりに、旗が立派に飾ってある。

タンホイザー進行曲が我らを迎えた。

式は牧師の祈祷、学長の演説をもって始まり、

学位卒業免状(ディプロマ)が下の級から与えられた。

バチエラー・オブ・アーツトカマスター・オブ・アーツ

という下の方の学位が、授けられるる時には、

各科の科長が生徒に代わって出た。

併し、ドクトルの学位が授けらるる時には、

学位の受領者は、

一同内揃うて演壇の上を進行(マーチ)した。

合図によって、

ローヘングリンのブライダルマーチ(結婚行進曲)が、

演奏せられ始めた。

ドクトルの学位を受ける人には、

年取った未婚の人が随分いる。

私の近所に並んで進行(マーチ)している婦人が

私達の前でこんな曲を演奏するのは皮肉ですね。

といふと、皆が吹き出してしまった。

壇上に登ると、大学総長バットラー博士は、、

私共に、一人一人握手をせられた。

総長のこの日の服装は、

赤の大黒帽子に真っ赤の式服(ガウン)、

遠くから見ると、まるで赤い大黒様のようであった。

私は、壇上に登った時、、

原口さん達がどこにいるか。、

と、室内を見回した。

最後に、名誉博士の称号が与えられた。

此の日、もっとも私の目に留まったのは、、

巴奈馬運河開削工事長・ゲータル大佐・、

プリンストンの信任学長ヒッベン博士・、

米国高等法院長ホワイト氏であった。

日に焼けた男らしい大佐の顔つき、

白髪・童顔の法院長の姿等は、

今でも鮮明に私の記憶に残っている。

彼らから学位を貰い、フッドをかけてもらうごとに、

コロムビアの学生が一斉に立ち上がる。

フレー・フレー・フレー・ヒッベン・ヒッベン

などと、威勢よく繰り返した。

アメリカの国歌でこの日の式は終わった。

始業式、其の物は口頭試験などに比べると、

つまらない物である。

けれども、

コロムビアでの四年間の勉強に終わりを告げしむるもの。

として、私にとっては、意味あるものであった。

私は此の日、

このようにして、第一の始業式をすまし、

第二の始業式の臨んだ。

この式は、

コロムビア大学

附属のユニオン神学校長ブラウン博士のお宅で行われた。

初めの始業式に於いてドクトルの学位を得た私は、

第二の式でミセスの称号を得た。

紐育サン・ヘラルド・ウォールド等は、此の稀有な出来事に対し、

何れも一段余りの記事を掲げた。

余り名が出て此処に載せるわけにはゆかないから、

タイムズ紙が遅ればせながら6月7日に載せた記事を、

次ページに掲げる事にしよう。

話は変わり

ブラウン教授(校長とは同名偉人)は、

同じくコロムビア・ユニオンに教えている。

彼は、私共が結婚した事を聞いた。

すると、

自分の家に来て少し遊んでいるように。

と熱心に勧められた。

ブラウン教授は、ブラウン兄弟と云い、

倫敦・紐育・市俄古・桑港(サン・フランシスコ)等に、

銀行を持ってゐる。

つまり、米国の有数の金満家である。

日本の正金銀行の紐育支店は、

ブラウン・ブラザースの紐育本店の二階の一室内にある。

ブラウン一族の本宅は、

ニュージャージー州の小高い山の上にある。

邸宅は、紐育市全体を見下ろしているので、

羨望絶景の邸宅である。

一つの山の大部分を所有しているのだから、

その広さは想像に余りある程である。

隣は、南北戦争当時の北軍の大将マクレランの邸宅である。

ブラウン家とマクレラン家とは非常に近い親類である。

なので、一緒に家を構えるようになったとの事である。

ブラウン家の当主はブラウン夫人で、

70~80歳の老人である。

老衰で、立ち居振る舞いが自由でない。

食事の時は、赤ん坊のように涎掛けを、

女中がかけてゐた。

人に会うのは午後だけで、寝台に寄りかかっていた。

通信その他一切の事務は、

婦人専属の書記がする事になってゐる。

だから、私共の接待は、お嬢様がせられた。

お嬢様は、落ち着いて私達をもてなしてくれた。

娘さんは、私達が上に入ると直ぐ

お部屋に案内しませう。

新婚の御夫婦は、

大騒ぎすると却ってご迷惑だ。

と云ふから、お構いしません。

だから、何卒ご自由に。

裏の方においでになると花壇があります。

と云われた。

家には植木屋・百姓・馬丁・自動車の運転手・

玄関番・女中などが大勢いる。

けれども、家族はブラウン夫人と嬢さんだけである。

この大きな家に男性は一人もいない。

我らは熱闘の巷を去り、

涼しき山の上に楽しく暮らし、

欧羅巴行きの支度をした。