神の御心によるキリスト・イエスの使徒パウロと、
兄弟テモから、コリントにある神の教会、
ならびにテアカイヤ全土にいる全ての聖徒達へ。

私達は、またもや自分を、

推薦しようとしているのでしょうか。

それとも、ある人々のように、

あなた方にあてた推薦状とか

あなた方からの推薦状とかが、

私達に必要なのでしょうか。

私達の推薦状はあなた方です。

それは私達の心に書き記されています。

全ての人に知られ、また読まれています。

あなた方が、

私達への奉仕の結果としての

キリストの手紙である事は、

明らかです。

それは、墨によってではありません。

活ける神の御霊により石の板にではなく、

人の心の板に書き記された物です。

私達はキリストによって、神の御前で、

このような核心を抱いています。

私達自身には、

何かを、自分がなした事を考える資格

は、ありません。

私達の資格は、神から与えられるものです。

神は、私達に新しい契約者となる資格を

下さいました。

文字に仕える者ではなく、

御霊に仕える者となる資格です。

文学は殺し、御霊は生かすからです。

石の上に刻まれた文字による

死に仕える務めさえ

栄光を帯びたものであります。

イスラエルの民は、モーセの顔を、

見つめる事ができないほどでした。

それは、彼にあった消え去る栄光の為でした。

そうであれば、御霊に仕える務めは、

もっと栄光を帯びたものと

ならないでしょうか。

罪に定める務めに、栄光があるのなら、

義とする務めは、

なお一層栄光に満ち溢れています。

実にこの点において、

かつては栄光を受けた者が、

さらに優れた栄光の故に、

栄光のない者になっているのです。

消え去るべき者が栄光の中にあったのなら、

永続する者は、

なおのこと栄光に包まれているはずです。

このような望みを抱いているので、

私達は究めて大胆にふるまいます。

モーセのような事はしません。

彼は、

消え去る者の最後を、

イスラエルの民に見せないように、

自分の顔に覆いを掛けました。

しかし、

イスラエルの民の理解は、鈍くなりました。

今日に至る迄、

古い契約が朗読される時には、

同じ覆いが掛けられたままで、

取り除けられていません。

それは、

キリストにより取り除かれるものだからです。

確かに今日まで、

モーセの書が朗読される時はいつでも、

彼らの心には覆いがかかっています。

しかし、人が主に立ち返るなら、

いつでもその覆いは除かれます。

主は御霊です。

そして、主の御霊がおられる所には、

自由があります。

私達は皆、覆いを取り除かれた顔に、

鏡のように主の栄光を映しつつ、

栄光から栄光へと

主と同じ形に姿を造り替えられていきます。

これは、

まさに、御霊なる主の働きによるのです。