横浜を出てから12日目であったか、
船は待ちに待ったカナダの土地に着いた。
最初に着いた港がビクトリアである。
それは夜であった。
翌朝早く、パティ嬢が私を起こして、
検疫医が客室に待っているから、寝間着で一緒に来い
と、言った。
大急ぎで手と口を洗い、髪をおさげにしたまま、
ミス・パティについて行った。
客室に着いて驚いた。
船客は男子も女子も平生の几帳面さ加減に似ず、
寝間着姿に足袋も履かないでいる。
男子の中には、洋服の様にできている寝間着の上に、
日本の浴衣を引っ掛けて
やや得意気になっているのを見受けた。
検疫医がどんなことをするのか
と心配していると、
上瞼をくるりと一度ひっくり返したきりであった。
健康診断はこれですんだのである。
検疫が済むまで、
やや沖の方にかかっていたターター号は、
徐々と行進を始め
ビクトリアの桟橋に横づけになった。
バンクーバーに向かって
出発するまで、4時間の猶予がある
との事で、一堂船客の面々は先を争って桟橋に躍り出た。
ABCを読み始めてから
どんな所だろう
と、想像していた西洋の町をば、ミス・ピーに伴われ、
電車に打ち乗り、夢心地で歩く。
税関・議事堂・博物館・海軍病院・・・・
いずれも日本の西洋造りとは一風変わった建築、
ことに私に一種清新なる印象を与えたのは個人の邸宅である。
夏、すでにたけなわたる時で、
薔薇などが一面に家の周りを取り囲み、
今を盛りと咲き乱れている。
殊に、目新しく感じたのは青々とした芝生である。
日本などで見るように、
家と家との間に窮屈な生け垣や塀などがないから、
あたりが広々としていて、
さながら一種の公園地の観がある。
ミス・パティは、
あるところでローンに水をやっている若い婦人を見て、
花を少しいただけないでしょうか。
と、お願いすると、
ミス・パティと私に
一束ずつ薔薇を剪んで(はさんで)くれたのである。
私どもはこの花を手にし、
凱歌(がいか)をあげて船に帰って来た。
船は纜(ともづな)を解いた。
海は油を流せるがなにごともなくに滑らかであった。
アメリカの西の東側には青々とした高山が聳え立っている。
たぶんロッキー山の一部であろう。
波が緩やかにそのふもとを洗っている。
右には半島が海の中に突き出ている。
バンクーバーの公園地になってるようで、
土曜の午後になれば、散歩の人々をあまた見受けた。
派手なピンクや空色やあるいは真っ白の洋服姿が、
緑の間にちらちらしている様は、
ここならでは見られぬ景色である
と、思った。
岬の廻りには絵に書いた様な小舟が浮いていた。
女性や子供が漕いでいる。
船が桟橋に着くと
ミスパティと同じく
ペナントのようなものの着いた帽子をいただける。
ミス・パティの友達が、
やはり黒の着物に白のカラーという
いで立ちでお迎えに出ている。
両人はあうやいなや
唇と唇とをつけて熱烈なるキッスを交わした。
私は、この時、初めて本当のキッスを見た。
そして異様の感じに打たれた。
パティ嬢の友人が
仕度の二頭立ての馬車に乗って宿屋に着いた。
その夜は、友達の家で、ご馳走になり、
ミス・パティと一緒に大きなベッドの上に休んだ。
ミス・パティは、この夜、
ことのほか愛情をこめていろいろな話をした。
船の上では行儀を教えたいばかりに
いろいろな無理な事をいった。
しかし、あなたが
いちいちよく言う事をきいてくれたので、
非常に満足であった。
学校にいる時には、やんちゃだとばかり思っていたが、
船の上で一緒に生活しているうちに、
だんだんに優しい所がある事が分かって、
本当に可愛くなった。
こういって、米国にいる時の心得を話して聞かせた。
いわく、みだりに男子と交際してはならぬ、
いわく、舞踊(ダンス)をしてはならぬ。
いわく、教会には毎日曜日にいかねばならぬ。
いわく、家から送ってきた学費は、
倹約して使わねばならぬ。
いわく、ある米国婦人のごとくに
お転婆になってはならぬ。
いわく、食卓上のお行儀は、
欧米では人の生まれ育ちを現す
と、さえ言われているくらいであるから、
大いに慎まねばならぬ。
いわく・・・・・・・
いわく・・・・・・・
いちいち覚えてはいないが、この人の教えによって、
無作法な事もせず、恥をもかかず、
人の前に立つことが出来るようになった。
パティ嬢が、かく細かに言って聞かせたのは、
ある用事のため、バンクーバーで
私と別れねばならぬようになったからである。
彼女は、横浜を出た間際には
朝夕接吻(キッス)をするようになった。
本当に可愛くなったものとみえる。
バンクーバーに泊まる事三日にして、
私は目的地たるニューヨークに向かうことになった。