物質的な愛情を超越した麗しいロマンスの成り立つ例も、

しばしばある。

金満家の令嬢が御者に恋して、

社会的位置も何も投げ打って結婚したり、

初恋の主が忘れ難くて一生独身で過ごす、

エバンジュリンに似た話も少なくはない。

けれど、総じて 米婦人のラブは、美的、

道徳的で理想的と云うよりは、

むしろ打算的で、理性が何時も主になっている所が見える。

例えば、

相手は感情では良い。

と、思うても、

その人の品格や財産社会上の位置が分からない中は、

容易に親しく交際はしない。

あの人は、愛して一週間に三・四度も会いに来るが、

あの人の愛は果たして長続きするかしらん。

等と、まだ18・19のうら若い少女が言っている。

だから、男女の交際が自由な割合に過ちが少ないのだと思う。

私共から見て可笑しいと思うのは、

恋うて恋うて恋ぬいた挙句に婚約し、

もう結婚がすぐである。

と、いうような時でも、

どうも気が合はないから。

とか、

男子が未だ女子を支えていくだけの力がない。

とか言って、二人で相談の上、綺麗に分かれる事がある。

そして、今まで取り交わしたラブレターや

写真等を戻し合って、再び平気で交際を続けている。

そして、遂には、他に相当の配偶者を創る。

私の知人で、まことに親切な米国の青年がいる。

だが、前に結婚の約束をした婦人があり、

その仲の良い事は、友人間の評判であった。

しかし、ある夏休みを田舎で暮らした、

かの青年が紐育に帰ると机の上に例の人からの手紙があった。

いつものラブレターかと思いきや

夏休み中、深く思ひめぐらし候に、

あなたと私とは、

どうも興味の一致せざるところ之有り候と存じ候。

興味の一致せざる男女の一生楽しき家庭を作りたる例は、

少なく候へば、この日限り云々。

という正々堂々たる理屈の手紙であった。

青年はつくづく考えてみたが、

どうも夫人の云う事が当たっている。

というので、早速承知の手紙を送り、約束を破った。

そして、平気であたりまへの交際をして居る。