キリスト・イエスのしもべ、
神の福音の為に選び出され、使徒として召されたパウロから
この福音は、神がご自分の預言者達を通して
聖書にあらかじめ約束された、御子に関する書です。
御子は、肉によればダビデの子孫から生まれました。
聖なる霊によれば、死者の中から復活により
力ある神の子として公に示された方私達の主イエス・キリストです。
この方により、私達は恵みと使徒の務めを受けました。
御名の為に、全ての異邦人の中に信仰の従順をもたらす為です。
その異邦人達の中にあって、あなた方も召されて
イエス・キリストのものとなりました。
ローマにいる全ての神に愛され、召された聖徒達へ。
私達の父なる神と主イエス・キリストから
恵みと平安があなた方にありますように。
それでは、肉による私達の父祖アブラハムは、
何を見出したと言えるでしょうか。
もし、アブラハムが行いによって義と認められたとします。
ならば、彼は誇る事が出来ます。
しかし、神の御前ではそうではありません。
聖書は何と言っていますか。
聖書は、
アブラハムは神を信じた。
だから、彼は義と認められた。
と、あります。
働く者にとっては、報酬は恵みによるものではありません。
当然支払われるべきものとみなされます。
しかし、働きがない人であっても、
不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、
その信仰が義と認められます。
同じ様にダビデも、
幸いな事よ。
不法を赦され、罪を覆われた人達。
幸いな事よ。
主が罪を御認めにならない人。
と、言っています。
これは、行いと関係なく、
神が義と御認めになる人の幸いについて
話しています。
それでは、この幸いは、割礼のあるものに与えられるのでしょうか。
割礼を受けてからですか。
割礼を受けていない時ですか。
割礼を受けてからではなく、割礼を受けていない時からです。
ダビデは、割礼をいう証しを受けました。
それは、信仰によって義と認められたしるしです。
ダビデが、割礼を受けないままで、
信じる全ての人の父となる為です。
また割礼を受けているだけではありません。
私達の父アブラハムが、割礼を受けていなかった時です。
その時の信仰の足跡に従い歩む者達にとって、
割礼の父となる為でした。
というのは、世界の相続人となるという約束が、
アブラハムに、彼の子孫達に与えられました。
それは、律法を守り、行う事により、与えられたのではありません。
信仰による義によって与えられたのです。
もし、律法による者達が相続人であるなら、信仰は
空しく、約束は無効になります。
実際、律法は御怒りを招くものです。
律法のない所には違反もありません。
そのような訳で、全ては信仰によるのです。
それは、ことが恵みによるようになる為です。
こうして、約束が全ての子孫に、
すなわち、律法を持つ人々だけでなく、
アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。
アブラハムは私達全ての者の父です。
聖書に
私はあなたを多くの国民の父とした。
と、書いてある通りです。
彼は、死者を生かし、
無いものを有るものとして召される神を信じ、
その御前で父となったのです。
彼は、望みのない時に望みを抱いて信じました。
主に
あなたの子孫は星のようになる。
と、言われました。
その通り、多くの国民の父となりました。
彼は、およそ100歳なりました。
自分の身体がすでに死んだも当然である事、
またサラの胎が死んでいる事を認めていました。
しかし、その信仰は弱まりませんでした。
不信仰になって神の約束を疑うような事はなく、
かえって、信仰が強められました。
彼は、神に栄光を帰しました。
また、
神には約束した事を実行する力がある。
と、確信していました。
だからこそ
彼には、それが義と認められた
のです。
しかし、
彼にはそれが義と認められた
と、書かれました。
それは、ただ彼の為だけではなく、私達の為でもあります。
すなわち、私達の主イエスを死者の中から甦らせた方を
信じる私達も義と認められるのです。
主イエスは、私達の背きの罪の故に死に渡され、
私達が義と認められる為に、甦られました。
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