こういう訳で、
私達は聞いた事を、ますますしっかりと心に留めなさい。
押し流されないようにしなければなりません。
御使い達を通して語られた御言葉に、効力があり、
全ての違反と不従順が、当然の処罰を受けたとします。
ならば、こんなに素晴らしい救いを、ないがしろにした場合、
私達は、どうして処罰を、逃れる事ができるでしょう。
この救いは、初めに主によって語られました。
それを聞いた人達が確かなものとして、私達に示したものです。
そのうえ神も、証と不思議と様々な力ある技により、
また、御心に従って、聖霊が分け与えて下さる賜物により、
救いを証してくださいました。
と、言うのも、
神は、私達が語っている来たるべき世を、
御使い達に従わせたのではないからです。
ある箇所で、
人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とはいったい何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みて下さるとは。
あなたは、
人を御使いより僅かの間低い者とし、
これに栄光と誉れの冠を被らせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
と、ある人が証しています。
神は、万物を人の下に置かれた時、
彼に従わない者を何も残されませんでした。
それなのに、今なお私達は、全ての者が、
人の下に置かれているのを見てはいません。
ただ、御使いよりもわずかの間、低くされた方
すなわちイエスの事を見ています。
イエスは死の苦しみの故に、栄光と誉れの冠を受けられました。
その死は、神の恵みによって、
全ての人の為に味わわれたものです。
多くの子供達を栄光に導く為に、
彼等の救いの創始者を、
多くの苦しみを通して、
完全な物とされたのは、
万物の存在の目的であり、
また原因でもある神に、ふさわしい事であったのです。
聖とする方も聖とされる者達も、皆一人の方から出ています。
それ故、イエスは、彼等を兄弟と呼ぶ事を恥としませんでした。
私は、あなたの御名を兄弟達に語り告げ、
会衆の中であなたを賛美しよう。
また、
私はこの方に信頼を置く。
と言い、さらに、
見よ。私と、神が私に下さった子達。
と、言われます。
そういう訳で、
子達が皆、血と肉を持っています。
イエスもまた、同じ様に、それらの物をお持ちになりました。
それは、死の力を持つ者、
すなわち
悪魔をご自分自身の死により滅ぼし、
死の恐怖によって
一生涯奴隷として繋がれていた人々を、解放するためでした。
当然ながら、イエスは、御使い達を助け出すのではありません。
アブラハムの子孫を助け出して下さるのです。
したがって、神に関わる事柄について、
憐れみ深い、忠実な大祭司となる為に、
イエスは全ての点で、兄弟達と同じ様に
ならなければなりませんでした。
それで、民の罪の宥めがなされたのです。
イエスは、
自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、
試みられている者達を、助ける事ができるのです。
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