船はシンガボアーに一日碇泊する。
と、いうのでW博士をはじめ私共一団体は、
シンガボアーから護謨園(ごむえん)を見に
出かける事にした。
が、今しも船を降りんとした時に、
私は、急に腹痛を感じたので、一人船に残る事にした。
話し相手無しに甲板にいると、
土人の宝石商が、蜂のように寄ってたかって、
私を苦しめる。
それで部屋に一人で寝ていると、一同は見物から帰って来た。
皆が見物した事を面白そうに話して聞かせるので、
私は、飢えた時にご馳走の絵を見せられたような気がした。
次の港は香港である。
ここへ着いた時は、私は大変元気であった。
それで、今日は私の他にも一人の日本人を誘って、
W博士・Iさん、美術家さんと一緒に上陸した。
炎熱焼くがことぎ街を通って、美しい公園に来た。
其処等(そこら)を散歩しているうちに6時になった。
船には12時までに帰ればよいのだから、
一つ陸上で、夕飯をとってみようではないか。
と、いうW博士の発議に一同賛成し、
海岸通りにある日本の茶屋に入る事にした。
それは、米国のアパートメント・ハウスの様にできてる
煉瓦造りの家の三階にあるのである。
細い階段を上ってそこに行くと、
十畳ばかりのお部屋が二間続きになっている所に通された。
勿論、西洋間だったのをこう直したのではあるが、
窓が比較的大きくて、そこに障子の立ててあるところが、
いかにも日本風な趣を見せる。
しばらくすると、銀杏返しに結った22から23才位の女性が、
お茶を淹れて来た。
次に浴衣を持ってきて、
風呂に入れ。
と、言う。
ここは日本の領分となればとて、
先ず男子の方々がお先に入った。
風呂上りの姿を見ると、
今までの厳格な洋服姿に打って変わって
いずれも素足に短い浴衣という異様な有様である。
次に、私共も湯に入った。
洋服を着て出て来ると、
そんな野暮なものはおよしなさい。
と、いって無理に浴衣に変えさせれらた。
ところが、それがちっとも似合わないので、
一同大笑いであった。
それから、純日本式のお酒が出た。
やはり、銀杏返しの16歳から17歳の少女が、お酌をした。
人々が小さな杯にお酒を注いでもらって、
ちびりちびり呑みながら、
お箸でお刺身などをつついてるところを見た。
その光景を見慣れぬ私には噴き出すように可笑しい。
ご飯が出て、それが済むと、またお酒が始まった。
今度はw博士が私に向かって、
舞踊(ダンス)をして見せてくれ。
と、言う。
大分お酒が回っていらっしゃるな。
と、思った。
私がそれを拒むと、
それでは、一同して盆踊りをしよう。
と、いうので、一同浴衣姿で、立ち上がった。
東京帝国大学教授何々博士とか、
京大の何々教授とかいう
鹿爪らしい肩書付きの先生方が、
手を叩いたり、足をあげたり、
よさいや
等と、掛け声をしながら足踏みをするところは、
実に妙である。
あんまり一同が揃わないので、w博士は大いに憤慨せられ、
それでは、今度私が先になってやるから、
一同は私の真似を一々するのです。
と、仰せられながら、博士が先に立つ。
すると、その後ろに一同が一列になって従う。
博士が、手を横に出すと、一同横に手を出す。
足踏みをすると、一同その真似をして足踏みをする。
大変揃うので、ご機嫌である。
一同疲れたので、今度は座ってジャンケンをする。
これは、宿の小女には誰も勝てなかった。
こうしているうちに、時計は12時を告げたので、
大急ぎで、船に帰った。
今度は、謡曲を聞かすから一同客室に集まるように。
とのW博士の招待である。
大分眠気が催してはいるが、
先生の美音には換えられじと一同これに応じた。
しばらく聞いている内に、堂々皆吹き出してしまった。
なぜなら、その謡曲はみんな出鱈目で、
いかにも真面目な顔をして、
口から出まかせを歌って居られる博士の御様子は、
いかにも無邪気であったからである。
しかし、この出鱈目が中々なかなか巧妙なので、
また、知らず知らず謹聴せしめられた。
興は中々尽きなかったが、
とうとう朝の3時半になったので解散する事にした。
と、云うのであった。
船は香港港を出た。
初めて九州の南端が現れた時は、実に嬉しかった。
W博士はお別れに、各々の名の入った和歌を贈ってくれた。
私のは
原と口 夫婦の如く 睦まじく
いけば世の中 いつも太平
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