今度23人の婦人が東北大学に入学する事について、

1 婦人は大学教育を受ける力がある者であるか。

2 大学教育を受けねばならぬ者であるか。

と、いう問題について、

新聞・雑誌で数多く議論せられている。

婦人が、大学教育を受ける能力がある者であるかどうか。

と、いう第一の問題は問題にならない。

23人の婦人が入学試験に及第した事が、

既に彼女らが、大学教育を受ける力がある者なる事

を、証明している。

やや問題になるであろうと、思わるるは、

婦人が一般に大学教育を受け得るかどうか。

と、いう事である。

しかし、つくづく考えると、これも問題にならない。

何故ならば、

男子の中で大学教育を受ける資格ある者は、少数しかない。

と、同様に、女子の中にも天性怜悧な人ばかりはない。

したがって、大学の家庭を履む事が出来る者と、

そうでない者とがいる。

しからば、女子は経済上の事情等が許せば、

進んで大学教育を受けねばならぬ。

また、受けさせねばならぬものである。

それは、どういう事であるか。

これも大騒ぎをするほどの事ではない。

その訳は、第一、

帝国大学もしくは大学院に入り得る女性は、少ない。

少ない訳は、

女性には、一般に結婚とか家庭とかいふ事を、

第一に考えるような性質が生まれつき備わっている。

それであるから、

到底抑える事が出来ぬ研究心を持つ。

とか、

御し難い(ぎょしがたい)虚栄心を持っている。

とかでなければ、自分の天性に打ち勝って、

研究しようとする気にならぬ。

また、いくら虚栄心・研究心があっても

大学に入って専門的研究をする能力がなければしかたがない。

専門的研究をこなす事のできる力を持っているうえに、

抑しがたい研究心を持っている人は、

蓋し甚だ少なかろう。(けだし、はなはだすくなかろう)

若し、そういう人がいたならば、

その人々の為にいつでも大学の門に、

入る事が出来るような準備をしておく事は必要である。

この点において私は、

東北大学が率先して女子を入学させた事を、大いに賛成する。

第二、

帝国大学若しくは大学院に入って男子と競争し、

学問上の発見・発明をするという事は、今述べた様に、

女子には偉大なる能力を要求する事である。

しかし、その他に大学若しくは大学院における研究は、

多大なる資力を要する。

私は、4年5年も遊ばして、勉強させる事のできる家庭は、

世間にたくさんはあるまいと思う。

だから、私は、

東北大学が率先して女子を入学させた事

を、大いに賛成する。

要するに、

帝国大学や大学院に入って真面目に学問するだろう。

と思われる婦人は、今の所、あまり多くはないからして、

これを大問題であるが如くに吹聴するのは当を得ない。

ただ、

風紀の点からして男女混合して教育してはどうか。

と、提案があり、その心配懸念には一応の理由があるが、

よく考えると之も杞憂うるになる。

と、いうのは、

女学校を終え、高等師範・女子大学等を卒業して、更に帝国大学に進もうという人が、無分別なる行いをあえてするだろう。

とは、どうしても思えないのである。

かくのごとき考えからして、米国あたりでも、女学校カレッヂ(日本の女子大学・高等師範と同一程度)等では、

間々、男女を別々に教育している学校もあるが、

我が帝国大学・大学院に相当するポスト・グラジュエート・スクールでは、男女を混合して教区をしている。

というのは、グラジュエート・スクール等に来る人は、最早、年も相当に取っているから

男子と一緒にいても女性らしくなったり、無分別なる挙動をする人は全然いないからである。

もし、大学院や帝国大学に、入学してから無分別なる行いをする者などがいたならば、

それこそ日本の女子は、社会に出る資格もなければ、高等教育を受ける資格もないのだから、

未来永劫大学の門を閉鎖せられても文句の並べようがなかろう。

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