新聞に依ると、今回の選挙には、
いつになく婦人が活動しているように見える。
勿論、こんな事に関する新聞の記事は、
余程割引していないと、大いに当てが外れる。
婦人が政治運動に携わるという様な事は、
その例に乏しいので、
一寸(ちょっと)した事でも人目をひきやすい。
したがって、新聞が大袈裟に書き立てる気配がある。
それで婦人の政治運動等といって、
これを大きな問題にするのは、
いささか常軌を逸している様である。
ことに運動を助けている婦人の中には、
有権者を説く等言う大した勤めをしているのではなくして、
単に書き物を配布するとか、夫の為に人に会うとか、
手紙を書くとか、直接に政治運動に関係しない者が、
大部あると思う。
こんな人を取り去ってみると、問題になる夫人の数は、
いよいよ少なくなってくる。
しかし、こと我が国の婦人の将来に関係する
重大なる問題であるから、
普通の流行等の様に軽々しく観過する訳にはいかない。
ある演説家等は、
この頃某某候補者は、
母や妻の援助を得て、選挙運動をしている。
女性の助けを得なければ、手も足も出し得ない無能臆病者。
と、言って痛罵している。
成程、反対党の立場から見れば、
婦人等に助けられているという事は、
片腹痛くも可笑しくもあらう。
しかし、
夫人が応援するから。
と、言って、強ちに咎めるべきではない。
婦人の中には、
この頃、選挙演説等に出る煽動家(デマゴーク)等よりは、
はるかに人格も高いし、識見もある者があろう。
と、思われる。
この頃、
あちらこちらに奔走している
煽動家・演説家・運動員なる者には、
随分人格の下劣な金銭の他何物もない連中が、
随分いるようである。
私は、
婦人が、国禁を犯さない範囲内において、
選挙運動をするという事は、
ある場合においては、むしろかえって歓迎すべきであろう。
と、信ずる。
男子が逐鹿場裡(ちくろくじょうり)に出て、
勝利を得ればよいが、
多額の運動費を使って、競走に失敗でもしたならば、
これによって得る所の精神上の痛苦の大部分は、
家にある婦女子がこれを負わねばならぬ。
して見ると、婦人が選挙場裡に奔走する事は、
いよいよ無理ならぬ事となるのである。
しかし、問題は、
婦人が、はたして十分の理解をもって、
運動しているかどうか。
と、いう事である。
成程、政治から感情問題を除き去る事は、
容易にできるものではない。
米国で、南部諸州は動かない南部と云って、
主義政網の間に拘わらず、
一段となって民主党に味方している。
ルーズベルト氏等は、
この悪習慣を打破しよう。
と、努めているけれども、
今日の所ではほとんど成功していない。
しかし、政治の大部分は一種のビジネスである。
決して、感情的に決せられるべき性質のものではない。
それで、息子だから味方に出るとか、
夫だから助けるというのでは甚だ面白くない。
殊に、戸別訪問等して有権者を拝み倒し、
無理往生をさせる等いう事は、
私情をもって、国家の大事を左右せんとするもの。
で、甚だ厭うべきである。
女子が感情的に男子を助けているだろう。
と、思われる事は、
今、甲の所に嫁いで夫を助けている婦人が、
反対党に属する乙の妻であるとしたならば、
夫に背いてまで甲を助けるであろうか。
という事は、甚だ疑わしい。
そうなると、政治はビジネスではなく
感情問題になってしまう。
選挙が段々近づいてくるにしたがって、
新聞等が互いに煽動的文句を並べるようになってきた。
何の某の赤いチョッキが気に入ったので、
神田っ子が片肌脱いでいる。
等という様な記事が出ておった。
これを、冗談半分に一口噺に書くというのならば、
解っているけれども、
堂々と記事に出して、有権者をおだてるつもりであるから
驚かざるを得ない。
新聞では、
神田っ子を誉めおだてるつもりであるかもしれないが、
赤いチョッキ位で投票を左右する。
と、思われた神田っ子こそいい迷惑である。
一代代議士にでもなろうと思う人は、
市井の浪人や感情的な婦女子等の助けをかりないで、
正々堂々の陣を張って男らしく戦わねばなるまい。
と、思う。
一人や二人、婦人が政治運動に手を出したからと云って、
口を斜めにして論ずるほどの事はないかもしれないが、
虎を描いて猫に類する。
というたとえもある如く、
某某婦人が政治運動をしているからと云って、
柄にも真似をする婦人等出て来ては、
婦人社会の為に憂うべき事であるから、
此の際、特に一言して起きたいと思ったのである。
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