斯くのごときに婦人運動は、ある国では、

ほとんどその極度に達しております。

ここに起こってくる問題は、

婦人は果たして社会的に活動して、

男子の競争者たるを得るか、競争者たるべき者か。

男子と女子の天職は、

自からにして存在する事はあらざるか、

女子が参政権運動を起こすに至ったそもそもの動機は、

彼女らが従来あまり男子に踏みつけられていたから、

また、自治の道を立てねばならぬようになったからであるとすれば、

女子の権利が認められ、自活の道がたった今日、

無理に男子と競争せずともよいではないか、

女子の天職は、矢張り夫を助け、家を守り、

子供を育てる事にあるのではないか。

という事である。

その昔、帝政時代の羅馬(ローマ)の婦人には、

米国の婦人にも許されていないような自由が許されていた。

為に、不羈放縦(ふきほうじん)に流れ、大いに堕落した。

それで、キリスト教(殊にポーロの教え)が入って来て、

女性は社会に飛び回るものではない。

内に引き込んでいるべきものである。

と、いう事にしてしまった。

それで、

近世の女性が、社会に出て競争しては、

男性の上に立って文明に貢献する事も出来ねば、

内に入って、

次の時代を作る子供も育てる事も出来ぬことになると、

或いは、ローマの女性の覆轍(ふくてつ)を、

踏むようになりはせぬか、

これらは今日の女子が、大いに考えねばならぬ大問題である。

否、婦人運動の最近の傾向は、

この事と大分その趣を異にした様である。

婦人運動の先駆者の一人であるエレン・カイの如きは、

最近の著「婦人能力の乱用」なる書中において、

女性は、世の中へ出て男子と競争するべきものでない。

男子を大切にし、

男子を社会的に活動せしむる事によって、

自己を実現すべきものである。

と絶叫しております。

婦人参政権運動に共感しているルーズベルト氏の如きも、

同様の説をなしております。

ルーズベルト氏は、

女子が、家庭で働いた余りの力をもって、

社会に活動するという事は決して悪い事ではない。

しかし、女子は家庭にいて、

子供を育て、次の時代を作る事によって、

最もよく己の天職を全うするものである。

故ハウ婦人の如く沢山な子供を立派に育て、

しかる後、社会に活動する人は、我が理想の婦人である。

と言って、同夫人をば、いつも激賞しております。

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